フリーター、イギリスへ行く

イギリス/大学院留学/LSE/Social Policy

「子どもは家庭で育つべき」はホントか?

なんか、太った気がする。お腹が。まあ別にだからと言って自分磨きにジムとか絶対行かないけど。どすこい、ちよわかまるです。

以前、「赤ちゃん救出作戦」というなんとも狂気じみた思考実験をお話ししました。一言で言えば、産まれた赤ん坊を親から引きはがし「家庭」ではなく地域ケアセンターで保育と教育を行うっていうトンデモ発想。本気でいいなんて思ってないですよ。根っこにあるのは「誰が子どもを育てるのか」という素朴な疑問です。
そりゃ、親・家族ですわな。もっと言えば、父親は働いて母親がしっかり面倒見るべきだという考え方もある。

コレ、正しい?

自分が身を痛めて産んだから愛し続けられるとか、親こそ最もよい養育者だとか、子どもの発達にとってベストだとか。本日は、「親が育てるのが一番自然じゃん」についてホンマでっか的かんじで考えていきます。レッツらゴー。

家庭崩壊みたいなことが言われ始めたのはいつからですかね。80年代くらいかな。アメリカ映画では「クレイマークレイマー」「アメリカンビューティー」とかで変わりつつある家族・親子関係が描かれます。日本映画でも83年「家族ゲーム」、84年「逆噴射家族」でそれまで理想的とされた「サラリーマン家庭」が音を立てて崩壊するさまが描かれてます(どっちの映画でもパリーン、ガガガなど本当に音を立てて壊れていく笑)。いずれも、痛快家庭崩壊系コメディとしておすすめ。

1980年以前は「3歳児神話」が広まっていました。「3歳児神話」とは、子どもの成長に重要な3歳までは母親が育児に専念しなければ、子どもの発達に悪影響が出るというもの。お母さんが育児をしているからお父さんは企業戦士として全力を尽くせる。これが高度経済成長を支えたという側面もきっとあります。でも、男を仕事に女を家庭に縛りつけていた根源とも言える。そもそも、神話というだけあって、「すべての親が子どもを愛せる!」なんてすごーく根拠の薄い道徳的な議論に聞こえてしまう。夫婦が離婚しないのは愛し合ってるからだ、なーんてウソウソ。あれ、ただ面倒くさいだけだよ笑 まあ、とにもかくにも「愛しなさい」と言われて愛せたら苦労しないという話です。

学問的に「3歳児神話」に疑問が投げかけられるようになるのが80年代。育児ストレス、家庭内不和などが研究され始めて「母性」の概念が問い直される。家庭という閉鎖空間でガキんちょと二人っきりの生活が24時間365日続いてごらんなさい。まあタイヘン。そりゃあ気が滅入るってこともあります。これは実際、虐待という形で90年代後半から、社会問題になっていきます(虐待相談件数の推移)。

さらに、女性がどんどん働き始めます(女性の労働参加率上昇)。すると、時間的にも家族だけで子育てをするのは無理だ、となるわけです。さて、どうしたものか、今までは育児は家族任せでよかったんだけど、ちょっともうムリそうだ。出生率も落っこちてるし何とかせにゃならんと偉い人は考える。で、ここ数年話題の、待機児童ゼロ作戦とか、ワークライフバランスとかがでてきた。待機児童ゼロは、育児を家庭から外に出すということで、育児の「社会化」または「脱家族化」と言われます。ワークライフバランスは、家庭での育児を前提に親の仕事と家庭の両立支援なので、育児の「再家族化」というかんじです。「誰が子どもを育てるのか」という質問に対して、今の日本の政策の立場で答えると、まず家族、そしてそれを企業や地域、国で支えていくとなる(そして出生率上がってくれ!が本当の本音)。

育児の責任は一義的には親にある。
うーん、ここでひっかかっちゃう。ぼくは、誰が育児をするかと同じくらい、どんな育児をするかが大切じゃないかと思うんです。保育園の先生でも、近所のおばはんでもお兄ちゃんでも、ベビーシッターでも、なるべく多くの人がそれぞれ異なる役割を果たす。 子育てのしやすい社会ってそうやって全員で子どもにかかわっていくことじゃないですかね。それが結果として、虐待のような事態を減らすことにもつながるのではないかと。どうなんだろう。議論のありまくるところですね。ただ、親が親がと強調して家庭空間だけに育児を任せ続けるのには、もう限界が来たような気がする。

実は、ぼくの修士論文はこのへんのことをテーマにしているんです。育児休業法の改正過程のなかで「誰が子どもを育てるのか」というのがどのように議論されているのか。けっこうオモシロそうでしょ?ヾ(*´∀`*)ノ
はぁ。修士論文の愚痴と弱音を書くと長くなるので、それはまた今度。ではまた。


「大学院留学の間違い」の間違い

やっとこの地獄のような1年が終わろうとしています。ただでさえジジくさいと言われているのに5歳くらい老けた気がする。ちよわかまる(24)です。

ふわっと大学院留学を考えている方々、
知らないと入学後絶対後悔する「大学院留学8つの間違い」
読んだことあります?
まあ、いろいろな情報が飛び交って、留学サポートビジネスもはびこっていて、何が本当のことなんだろうと迷い、惑い、不安になりますよね。ただ、一つたしかなのはどの情報も一般化できないということです。ぼくが留学する目的は、あなたが留学する目的とは全く違う。だから、「経験者」の言うことはあてになるようでならない。でも、今日はあえて「経験者」の一人として、大学院留学に関して飛び交う情報を考えてみます。

まず、ぼくの立場を言わないとですね。ぼくの一番の目的は、自分の価値観の通じないところで悶え苦しむこと。だからぼくにとって、大学院留学は「目的」ではなく「手段」です。大学院留学が自分のキャリアにつながるかとか、この学校のこの先生の下で学ぶ、とかはあまり重要じゃない。あと、ぼくは日本の学部卒業後、就職せず渡英して社会科学のSocial Policyという分野を専攻した人間です(アメリカやオーストラリア、理系やアート系の修士については全く分からない)。そんな大前提のもとに話します。


留学エージェントは必要か
必要じゃない。たしかに、セミナーや留学フェアみたいなものはタダで参加する分には損はないです。でもお金を払って何から何までやってもらうというのは正直意味が分かりません。なぜなら、その部分こそ未知なる世界に踏み出す第一歩だからです。語弊はありますが、出願を自分一人でできないならば留学などしない方がよろしい、と思っちゃいます。英語のサイトを読み、自分でスケジュールを組み立て、自分で責任を取る。こんな貴重な経験をお金を払って人にやらせるなんて、とんでもない!

国から絞ってもいい
なんとなく行きたい国ってありますよね。北欧、カナダ、フランスとか。そこから始まっていいんです。だって行きたいんだから。可能性を制限することになるけど、何かしら制限しなきゃ大学院なんて星の数ほどあるんだから。まずは直観的に始めていいと思います。

英語力がなければ諦めたほうがいい
当たり前のことです。英語ができない人に大学院を勧めるのはかなり疑問。だって、大学院留学べらぼうに高いんですよ。そこに英語ができない状態で行ってそれがその人のためになりますかね。ワーホリとか語学学校とかならまだしも。ただ、もう少し根本的なことを言うと、英語が話せるかどうか以上に、留学して英語を向上させる気合と術を持っているかという点が重要です。ぼくが大学の採用担当だったら、「英語が多少話せなくても、語学の問題は自分でなんとかしながら学術的な貢献に力を注ぐ人間」を期待します。いずれにしても、英語は必須であり、どこまでも貪欲であること。これが大切だと思います。

新卒大学院留学のリスク VS 新卒大学院留学の意義
これは大きな議論の一つですね。この点こそ「経験者」の話が最も当てにならない場合が多い。なぜなら、みんな自分の主観的な話をサクセスストーリーか失敗談かにして話しがちだから。結論を言えば、リスクも意義も両方あり、どれを優先させるかという話です。リスク、たくさんありますよ。新卒採用のチャンスを失う、金がかかる、社会科学の修士号は日本じゃ役に立たない、貴重な若いときに働きもせず勉強する、などなど。リスクを違う視点で見ればメリットになる。今就職しても海外に行きたいという思いはきっとなくならない、後で行った方がもっとコストがかかる、日本で社会科学があまり発展してないからこそ取る意義がある、貴重な若い時だからこそ違った環境でいろいろ吸収できる。
優先順位は一人ひとり違う。だから、自分で何を捨て何を取るかを考え決断するしかないんです。

一度社会に出てから行くべき
正直、そう思う瞬間もあります。たとえば、Illegal Drug Policyという薬物規制政策の授業を受けていると、そういう分野で働いていた人はいろんな知識を持っていてスムーズに議論をしています。ぼくは何も知らないから、Cannabis(大麻)とかMethamphetamine(覚せい剤)など薬物の名前を調べ効能の違いを把握するだけで一苦労。Social Policyという分野では、現場がどうなっているかというのがとても重要です。若いが故の知識や経験の限界は時々感じますし、働いてから来ればもっと深められたかもなあと思うこともあります。
でもまっさらだからこそ、恥も知らずにいろいろぶっこんだりすることもできます。ある意味フラットに考えられる。若いからプライドもない。40歳になって留学して知識なかったり英語ができないと自分でも苦しくなりそうだけど、若いと「できなくて当たり前じゃんオッケー♪」だから楽。

GPAの重要性
GPAは計算方法でどうにでもなるからオッケーというのは、安易な考え方です。大学の成績は自分が「やったこと」の一つなわけだから、ちゃんと説明できなきゃいけない。自分の計算方法がどういうふうに妥当なのか、なぜ成績があまりよくないのか。特にもう既卒で成績が自力で変えられない人にとって、そういう説明(justification)は非常に大事です。
成績悪いけどまだどうにかなる人は、残りの科目全て最高の評点(A⁺なりSなり)を取るよう全力を尽くす。ぼくは大学3年の後期からめちゃくちゃがんばりました。これは勝手な予想ですが、日本の大学で満足に成績取れない人がイギリス行って世界のガリ勉を相手に生き残れるとは到底思えない。

考える続ける忍耐力
ぼくの修士生活は、ひたすら考える作業。ともかく知識を増やし、それに基づき考える。毎日毎日考える。それが1年続く。しかも高額なお金を払ってわざわざ自分からやる。コイツバカだな、と思います。「なんか楽しそう」で来てもやっていけるけど、実際楽しむ余裕がないときもある。くそうんこーって叫びたいときある。寝る前に「おれ何やってんだろう」とふと思うときある。でも、来なきゃよかったと思うときは意外とないです。

以上、けっこう批判的に書きましたが、冒頭の「大学院留学8つの間違い」は実はけっこう参考になる情報が多く、バランスよく書かれていると思います。
「海外に住んでみたい」という自分の純粋な気持ちを大事にしながら、いろいろな要素一つひとつじっくり考えて決めればいいと思います。考えぬいた結果として留学したならば、辛くてもあきらめがつくってもんですよ。
と、余計に不安をあおり立てたところで、今日はおしまいです。


「民主主義」にご注意ください

ロンドンはけっこう涼しく、ていうか少し肌寒くなってます。青空の下で爽やかに鼻くそをほじってるちよわかまるです。

大学生の時にぼくがいたサークルで代表を決める時のこと。代表候補の3人が部屋から抜けて外で話し合って代表を決めるということがあった。いわゆる密談。若かりしぼくは「民主的な決め方じゃない」と強く反対した。
でも、「民主的な決め方」ってなに?なんでそれの方が密談よりイイの?と今ボクは過去ボクに尋ねたい。

こういう話はけっこういろんなとこに転がってる。たとえば大阪市長の橋下さん(執筆時点ではまだ現職)。時々記者会見を見ていると、「嫌なら選挙で私を落としてください」「反対ならあなたが選挙に出てやってみてください」というかんじの発言がある。なんて乱暴な!と思う人もいるだろうし、実際ぼくも、「それを言ったら何も言えないよお」とついつい思う。でも、この「乱暴さ」こそが民主主義の優れた点であり困った点だというのが今日の話。

民主主義は、たぶん、限られた人だけでなくみんなで平等に話し合いに参加して決めましょうね、っていう考え方。でも日本だけでも1億という人がいて、みんなで話し合うのは到底無理だし非効率的だから、話し合ってくれる人を選びましょうとなる。これが選挙。すると、選挙で受かった人が自らの判断に基づいて行動するのは問題ないという結論に一応たどりつく。橋下さんの態度が好きか嫌いかは置いておいて、選ばれた人が自らで判断して物事を決めるのは独裁にも見えるが、選挙でお墨付きを得ているから民主主義の(正しい)意思決定になる。

でも、そもそも「みんなで決めたほうがいい」っていう前提は相当怪しい。Aさん、Bさん、Cさんで話して決まることを、関係ないDさん~Zさんまで引っ張り出して話すとなれば時間もお金もかかる。A~Cさんが戦争参加反対でD~Zさんが参戦賛成なら、あっさり戦争参加になるわけで。昔のドイツは、この民主主義の暴走の例で引き合いに出される。

政治思想の話の時はいつも鼻くそをほじっては飛ばしてたけど、唯一覚えているのがイギリスのロックさん。ロックさんは、みんなの同意(社会契約)で社会を作ろうよと専制政治からの変革を言いつつ、国民代表のみによる純粋な民主制は主張しなかった。理由は「大衆の軽率な愚考による秩序崩壊の危険性」。つまり、パンピーが国を混沌に陥れると。たぶん、大衆革命で血が流れ続ける当時のカオス状態にうんざりしちゃったんでしょうね。結果、大衆の暴走を国王と貴族がチェックするという立憲君主制になった。

だから、民主主義がいい社会をもたらすなんて全く一概には言えない、とひそかに思っちゃったり(社会不適合者に思われそうで大きな声で言えないよお)。

そうやって考えていくと、安倍さんや橋下さんに対する「民主主義に反する」とか「強行採決で横暴だ」みたいな批判も実はあんまり本質的じゃないというか、違和感が多いという感じ。だって、民主主義ってそういうものじゃん。自分たちの考えを言う。選挙で数を取る。意思決定をする。そうして決めた法律は(一応)民主主義政治の結果となる。どんなに低い投票率だろうが、選挙があり代表が選ばれたなら、その後に何を言っても遅い。

法制度を変えたいなら方法は2つ。一つは、選挙で数を取って数の力で変える。民主主義を主張し現状を変えたいなら当然そうなる。もう一つは、民主主義というシステムを修正する、またはそれに代わるシステムを主張する。よい法制度が決められる仕組みを考えるということ。特にこの二つ目の点はけっこう大事だと思うけど、今やってるデモも新聞も、そういうことはあんまり言わない。強行採決(=多数決)を批判するなら、今の民主主義を否定するわけだから、代わりとなる物事の決め方を示すことが必要になるはずなんだけど。批判をすること(言論批判、内閣不支持率を上げる、デモ行動)は、ある一時点の民主主義の暴走を監視するという意味で大事だけど、長期的な変化につながるとは限らない。特に、理由はわきに置いてただ「反対!」という旗印のもとに集まっているだけだと、これはこれで乱暴にも見える。

たとえば、参議院は選挙じゃなくて、国民の当番制にする「当番制参議院」。兵役はないけど議員役みたいにして、各都道府県・男女・年代とかの観点で均衡になるようにして、3年間くらい東京に住んで国会審議してもらう。もちろん給料・生活費全て国費。民主主義を支持する割に、こういうのを聞くと「それは面倒くさいな」と思っちゃうんだよね。
もう少しマシなアイディアとして、今ある外部有識者による「審議会」の政策立案システムを利用する手もある。今は政府の「隠れ蓑」としてお墨付きを与えるだけになっているなんて批判されているけど、もっと省庁官僚の運営から独立して専門家たちが自前で運営し監査権や拒否権を持てば、意思決定をチェックする独立機関として機能する可能性がある(これって司法の役割な気もするけど)。まあ、完全に独立した機関なんて日本にできるとも思えないが(笑)
もっとちゃんとしたアイディアとして「熟議民主主義」っていう政治思想がある。よく知らないけど、よく知りたい人はコチラ

こうして恥を晒したのは、最近の若者のデモを見たから。ぼくと同じくらいの年代ががんばっていてすごいなあと思う一方で、具体的出口の見えない主張が展開され、それが「若者の声」として取り上げられることに違和感もある。結局のところ「声をあげたもん勝ち」の論理で、根本的な今の社会の問題点の解決にはつながっていないように見えてしまう。「全員」は無理でも「なるべく多くの人」が納得できる決断を出すには、どのような「決め方」をつくったらいいんだろうか。そんな議論もあったらいいなあ。ズブの素人感をさらけ出したところで今日はおしまい。

あ、すんごい鼻くそ出た(*´艸`*)


教えてベンゾウ!-英語論文を読む

起きて飯食って論文読んで飯食って風呂入って論文読んで寝て起きて論文食って、あ、ちよわかまるです。ガリ勉パワーで眼鏡が割れてしまいそうです。

大学院に行って英語で勉強って何してるの?どうやってやるの?と思われることでしょう。本日は、ゲストにイケメンスーパーガリ勉エリート戦士ガリ・ベンゾウくんをお招きして、そんな素朴な疑問にお答えしていくというコーナーです。

勉強とは具体的に何をしているんですか?
ーーー勉強時間で考えると、論文を読む60%・エッセイやらを書く30%・授業に出る10%くらいです。けっこうな時間論文・書籍・統計資料などを読んでいます。論文だとだいたい1本あたり15~20ページです。授業一つにつき2本が課題として出ると、週に5、6本の論文を読むことになりますね。

ベンゾウくんは1本の論文を読むのにどれくらいかかりますか?
ーーーはじめは私のがり勉パワーをもってしても3時間ほどかかっていました。今は同じ時間で2、3本読むことができます。エリートですから。

いわゆるスキミングとかそういうことですか?
ーーー読むのが遅いのは当然のことです。見慣れない単語や概念ばかりで、英語の論文の構造もよく把握してないわけですから。多くの論文を読んで、自分でエッセイを書くうちに、少しずつどこに大事なことが書かれているかが判断できるようになり、大事そうな部分だけを読むことができるようになります。試験用の小賢しいスキルではなく、地道にいくつもの論文を読んで慣れること。これです。

でもそんなにたくさんの論文や本を読んでいたら内容を忘れませんか?
ーーー凡人はそうでしょう。だから凡人は工夫しなければいけません。書いて覚えるタイプの人は読みながら重要な部分をノートに書き出していく。でもそれは時間がかかる。だからワードなどPCで要約(サマリー)を作る人もいます。この場合、論文もpdfファイルであることが重要です。パソコンの画面の左に論文、右にワードを表示して、論文を読みつつ重要な部分をコピー&ペースト、といった具合にまとめていくことができます。これが最も早く確実なやり方でしょう。まあ、エリート戦士の私には縁のない話なのですが。

論文は全部pdfで見られるんですか?
ーーー基本的には。中には紙媒体しかない場合もあります。本や本の1章分などの場合も出版社によっては電子化されていない場合があります。Oxford University PressやCambridge University Pressの書籍はLSEのWebからアクセスすることができます。多くの本や論文に無料でアクセスできるというのは高い授業料の対価とも言えますね。紙でなきゃ読めないと言う人もいますが、トータルで時間とコピー代がだいぶかかりますのでご注意を。

試験では論文の内容がでるんですか?
ーーー残念ながら、中学の社会科のような教科書を覚えるというものではありません。私が最もガリ勉パワーを消費するのは、読んだことを基に考え言葉にするという過程です。だから普段から読んだことを分析するよう癖をつけておく必要がある。たとえば、ワードには「コメント機能」がありますね。作ったサマリーに対して「Dean(2010)と同様の指摘」とか「この点は議論の余地あり」など自分のコメントを加えておくと、あとで読んだ時もスムーズに論点を結び付けていくことができます。おっと、私はやっていませんよ。やっていませんとも。

その他、何かベンゾウ的な視点から言いたいことはありますか?
ーーーガリ勉の視点から申し上げれば、自分に合ったガリ勉スタイルを見つけることが大切です。限られた時間内で多くの論文を読み、かつ自分の考えもなるべく言葉にしておく。エッセイや試験を乗り越える上でもこれが最も重要となります。あとエリートの視点から申し上げれば、どんなエリートも凡人から始まっているということです。


以上、イケメンスーパー以下略、ガリ・ベンゾウくんに英語論文攻略方法をお聞きしました。それでは、また次回。

 

Communism Tourに行ってみた

童顔なので旅行の際はヒゲを伸ばす作戦です。ちよわかまるです。

先日までポーランドに行ってたんですが、そこで「共産主義ツアー」なるものに参加してきました。結論から言いますと、すごい面白かった。

朝、トラバントというイカした車で迎えに来てくれたガイドのオレック君。ポーランド訛りなのか、ものすごく勢いのある早い英語を話す。
「ギアが壊れてて1と2と4しか入らないんだ」
「数日前はブレーキが壊れちゃって1時間半ハンドブレーキだけで走ったよ(笑)」
など車のエンジン同様オレックトークも全開。ブレーキが故障?ご冗談を。まだ死にたくないからね。

その数日前。
地球の歩き方のすみっこに書いてあった「共産主義ツアー」を見て、ん?と反応してしまった。絶景を見ても心ひとつ動かない僕ですが、共産主義、ユダヤ教、クルド人などと聞くと少し血が騒ぎます。ツアーを運営しているのはCrazy Guideという団体。ウェブページにいろいろ詳細が書いてある。
“Your guide is not a historian. He's your laid-back driver & friend showing you Krakow through his eyes.”
(ガイドは歴史家ではありません。親しみやすい運転手兼友達で、彼の目から見たクラクフをご案内します)
ポーランドについてなーんも知らないぼくにはちょうどいいじゃない、と思いクレイジーに予約したわけです。

予想通りのクレイジーとアドヴェンチャーを味わいながら、トラバントはクラクフのNowa Hutaという場所に到着した。Nowa Hutaは社会主義的な思想に基づいて開発された町だそうで。これがね非常に興味深い。町がいくつかのセクションに分かれていて(オレックはStateと表現していた)、それぞれのセクションに学校や病院などの必要な機能がそろっているんだとか。はい、どこかを思い出しますね。そう、イスラエルのキブツです。自給自足・共同生活を前提にした本当のコミュニティー。Nowa Hutaの場合は、非常にきれいに区画整備されているのが印象的です。まあでも今では、レーニンかなんかの銅像は取り除かれ、逆に米大統領レーガンの名前が通りにつけられるなど、完全に脱社会主義ですが。

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(扇形に広がる町が大通りで4区画に区切られている。一番右の三角形っぽいとこからセクション1で反時計回りに2、3、4と続く)

次に、当時から今まで稼働している工場にも行きました。この工場が実に巨大。工場労働にはとても価値が置かれていたようで、“Second religion”と位置付けられていたんだって。町の名前Nowa Hutaは英語でNew Mill、つまり「新しい製鋼工場」です。“新しい”というのは、それまでとは異なる「革新的な都市生活」みたいな意味が込められたんだとさ。

じゃあFirst religionってなによ?となるわけですが、キリスト教カトリックみたいです。でも宗教と社会主義というのはあまり相性がよろしくないようで、Nowa Hutaには典型的な教会は見られません。当時の住民たちは教会を作りたかったらしんですが、政府の支援は得られなかった。そこで自分たちで10年かけてつくっちゃった。それが、Arc of the Lordというものすごい変わった教会。Arcというのは箱舟という意味で、社会主義の支配・抑圧から逃れるという意味もあった。さらに、この教会は建築物としてすごいいい。とても複雑なつくりをしている。オレックの言う通り現代アートというかんじです。

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(教会とは思えない外観)

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(分かりにくいけど教会内部の天井。木でできた屋根が箱舟感を演出。その隣には謎のごつごつがある)

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(イエス様でしょうか?少しお腰をおひねりになられている)


そんなかんじのちょーディープなツアーでした。観光地巡りとは一味も二味も違う側面が見られた気がします。ポーランドに行く際は、Crazy Guideを利用してみるといいのでは。
ではまた。


とっても申し訳ないのですが、当ブログに書いてある内容によって生じた問題などについて、書いている人は何一つ責任を果たせません。
寛大な御心とご自身の判断力をもってお読みいただければ幸いです。