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イギリス/大学院留学/LSE/Social Policy

連絡手段

ちよわかまると留学のことでいろいろ話したい。でもコメントするのはちょっと...

そんなちょっと恥ずかしがり屋さんなそこのあなた。
gmailのアカウントを作りました!(chiyowakamaruあっとgmail.com)
ちょっと気になるあーんなことやこーんなことも、個人的に好きなだけ聞けますよー

嬉しいことに、「会って話したい」とコメントして下さる方がけっこういらっしゃいます。でも、連絡先が書かれていなくてそれでうだうだやるのが面倒なので、もう直接メールしてもらった方が手っ取り早いんですよね。

こちらのメールは週1くらいで確認するよう努力します。留学に関することであれば、なんでもけっこうです。会って話したいという方は、お名前や学問分野などをざっと書いてお送りください(都合が合わず、会えないかもしれませんが)。
ブログの内容に対するご指摘やご意見もけっこうですが、そういう類のものは記事のコメントからお願いしたいです。

なにコレ、留学エージェント?こうやって起業とかしちゃう学生いるよね。いるよね~。


人間のニーズを考える 3

最近、1日10,000歩あるいています。弁当を作っています。ゆっくりお風呂につかっています。健康男子です。ちよわかまるです。

このブログは1ヶ月に1回配信されるメールマガジンのようになっちゃいましたね(笑) いや、いいんですよ。だって趣味だもの。仕事じゃないもの。


さて、前回残しておいた問いから始めましょう。
すこぶる健康でお金さえあれば、生きていけますか?あなたのニーズは満たされたと言えますか?
先に言うと、ぼくはNOだと思うんです。ひきこもりがちのぼくですが、ひきこもりすぎて人と話したいと思うようになります。誰かを大事にしたいし、されたいとも思う。前回のMaslowの欲求ピラミッドを思い出してください。真ん中から上の3つ(所属と愛情の欲求・承認欲求・自己実現欲求)は、自分一人じゃなくて、他者とのかかわりのなかから得られるものです。

ついに、「人間とは何か」という一番根本的で厄介なことを考えなくてはならなくなるわけです。自立した個人と考えるのか、他者と支え合って生きる存在ととらえるのか。うーん、ムズカシすぎるー。
ここで役立つのが、LSEのHartley Dean教授のUnderstanding Human Needという本です。Deanさんは、「人間とは何か」という問いに対して、Thin needとThick needという二つに視点から議論を展開しています。

まず、Thin need(薄いニーズ)。これはですね、個人(individual)をベースにしています。ここで言う個人は、自分中心・打算的な個人です(Hedonism)。自分の利益を最大限追求し(pleasure seeking)、不利益を最小限に抑える(avoid pain)。ある意味、私たちの本能本質ですね。
この個人が集まってできた社会は、なるべく多くの人の利益を増やし、不利益を小さくすることを目指します。聞いたことがありますね。「最大多数の最大幸福」ってやつです。福祉制度としては、働ける人は働く(例:就労支援)、事情があって働けない人には経済的な援助をする(例:生活保護や各種扶助)というものです。個人の経済的ニーズに限定して、福祉を実行することになります。

これに対して、Thick need(厚みあるニーズ)は、人とは脆く(vulnerable)、だからこそ協力して支え合う存在だという人間観に立ちます。個人ではなく集団(collective)を中心として、お互いに助け合いリスクを共有する社会となります。具体的には、社会保険のような互助的なシステムによって支え合うわけです(例:全メンバーからお金を集めておいて病気になったメンバーにお金をあげる)。個人の経済的な利益追求のみならず、お年寄りや子どもに対するケアや教育も人間のニーズに含まれていきます。このように、Thick needの中心には、Interpersonal attachment(人間同士の思いやり)、Solidarity(連帯)、Social engagement(社会参加)といったキーワードが並びます。


さてさて、ThinとThickの比較から、全く違う人間観が出てきましたね。ぼくらは、個人として自立することが立派で当たり前だと思っています。働いて生計を立てる。自ら考え、決定し、行動する。そんな「強い個人」になるように求められている。ヨーロッパの人権の思想も日本の憲法も、そんなスーパー個人を前提にして、Thin needの方を前面に押し出してきました。
が、しかし、バナナマンの日村が言ったように、または、DeanさんがThick needで示したように、人間はもっと弱く不安定で、目に見えないもの(愛情・信頼・達成感など)によって自らの存在意義を認識し、人間らしさを得ている。そして、その目に見えないものは、他者とかかわる・支え合うという過程でしか得られないものです。

でも、どうやってThick needを満たせるような福祉制度をつくればいいのだろうか?お金をあげて住居見つけて就労支援して、それ以上国家ができることはあるのか?うーーーん。


と、読者の皆さんにもやもやを残して、今日はおしまいにします。今日のトピックは書くのけっこう大変でした。ぼくのなかでは、ニーズの議論で一番面白いところなんですけど、たぶんうまく伝えられてないだろうなあ。まあ、許してくだしゃい。
疲れてきたので次回でこのテーマを終わりにします。それではまた。


人間のニーズを考える 2

久しぶりの連投です。リスとブタのハイブリッド、ちよわかまるです。

はい、啓発度の高い回です。ニーズとは何か。前回は、バナナマンの自分だけ全てタダ法と、誰とでもセックスできる券からヒントをいただきました。今日は、そのへんをもう少し学術的な話に乗せていこうと思います。がんばるよ、ぼく。

ニーズをどのように定義するかから始めてみますか。まず、Needs(必要なもの)とWant(欲しいもの)は違います。Wantには必要ではないものも含まれている場合があります。ニーズというと、もっと基本的で必要不可欠なものに限定されます。じゃあ、基本的で必要不可欠ってなによ?となるわけです。ここで、Poverty(貧困)の概念と同様に、絶対的と相対的が問題になります。人間として生きていく上で何が絶対に必要か(Absolute needs)。その社会で生活する上でどの程度必要か(Relative needs)。めんどくさいですが、この二つをまず考えてみます。

人間が個人として生きていくために絶対に必要なものは、けっこう議論されてきました。Doyal & Gough(1991)は、人間の活動に必要なもの(basic needs)を二つ指摘しました。一つは、Physical health(身体の健康)。これを満たすため、衣食住の提供、疾病予防や医療などが必要になります。もう一つは、Personal autonomy(個人の自主自律)。これは少しわかりにくいですが、「自分で考え自分で決める能力」ってかんじですかね(貧困の話で出てきた“agency”に近い)。自分で決めるためには知識、理解力、実行力が必要で、そのためには教育制度が必要になります。

同じように、心理学者のMaslowも人間の欲求の階層を示しました。下から、生理的欲求・安全欲求・所属と愛情の欲求・承認欲求・自己実現欲求です。Maslowのポイントは、下に位置するニーズがより基本的で不可欠だという点です(身体のニーズを満たすのが第一で、内面のニーズはその後)。

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でも、こうして人間全員に共通するニーズって「誰が考えるか」によって変わりません?心理学者が考えるニーズと、医者が考えるニーズは違うでしょう。時代によってもけっこう異なるかもしれない。愛に飢えたこのご時世、もはや衣食住より先に愛情が必要なのかもしれませんよね。そう、ニーズとは「誰がいつどこで考えるか」によって違うふうに決められるのです。社会によって変わってしまう、だから相対的(relative)なわけです。

Bradshaw(1972)は、社会政策や社会サービスにおいて、ニーズが誰にどのように決められるかに着目しました。そして具体的に以下4つのニーズに分類しました。

  • 専門家によってルール化されるNormative needs
  • 一般人への意識調査に基づくFelt needs
  • 政治家や市民運動の要求によって決められるExpressed needs
  • 別の地域の人との比較によって決められるComparative needs

このように、実際の政策や社会サービスでは、ニーズはこれだ!と一つに決められないわけです。特定の人たちの意思(政治要求や利権)や制度上の制約(予算や給付方法)によって、不要なものがニーズとして取り入れられたり、必要なものが排除されてしまったりという場合もありうるわけですわ。

要するに、
There cannot be one true meaning of a word like ‘need’” (Dean, 2010: 4).
「ニーズ」のような言葉を一つの定義では説明できない、というわけです。


さてさて、教科書的なつまらない情報はこの辺にして。少し自分の生活で考えてみると面白いですよ。お金があって衣食住は整っている。自分のことは自分で考えてやっていける。じゃあ、一人でお金さえあれば生きていけますか?
ぼくは、何度かビッグイシューを売っているホームレスの人に「ビッグイシューの収入はそんなに多くないのにどうして続けているんですか」と聞いたことがあります。総じて、「販売を通して人と会って話すのが楽しいから」というような答えが返ってきます。
ぼくは、これしっくりきます。人間関係は、お金や健康とならんで生きていく上で大事なものだと思っています。でも、これって政策やサービスにできるのだろうか。。。

このへんの、人と人のかかわり合いについては、次回ニーズとウェルビーングの話で掘り下げていきたいと思います。よし、今日はがんばったのでもうおしまい!


【参考文献】
Bradshaw, J. (1972). The Concept of Social Need.
Dean, H. (2010). Understanding Human Need. Bristol: The Policy Press.
Doyal, L. and Gough, I. (1991). A Theory of Human Need. Basingstoke: Macmillan


いま、告白します

5回に2回、社会の窓がひらきっぱなし。なんちゃってね。ちよわかまるです。

それにしても、お久しぶりです。今日はブログを更新しまくると固く心に決めて参りました。期待してください。生ぬるいトピックで、この1ヶ月の穴埋めができるなんて考えちゃいませんぜ。昨今facebookやらブログやらで垂れ流されている、わたしの生活充実してるでしょ?おれの考えてることすごくね?的なナルシス投稿にうんざりしてしまった方。お待たせしました。今日は、ぼくが1年間の留学でできなかったことを徹底的に掘り下げていきます。ありふれた留学の成功体験などもう聞き飽きたんじゃい!!


早速いくんじゃい。一番できなかったこと。
何でも話せる仲のいい外国人の友だちができなかった。
わーーーショッキーング。鼻から牛乳ですよ。「イギリスで友達できた?」と聞かれ、「いるっちゃあいる」とか「勉強ばっかであんまりそういう機会がなかった」などと小賢しい言い訳をして、この現実を認めてきませんでした。しかし、はっきり宣言します。外国人の友だちはできなかった!!
なぜか。なぜなら、英語が通じない。通じたとしてもすごい時間がかかる。そんなところでストレスを感じたくない。勉強が大変だからそっちを優先しよう。そういう逃げとあきらめの姿勢がありやした。
「言語も文化も通じない環境に身を置きたい」とかかっこつけたこと言って渡英しました。言葉を取ったらただのポンコツおじさんでした。ぼくは、日本語でも英語でも、言葉にとても依存して人間関係を築いていたわけです。だから、言葉を取ると魅力も中身もないスカスカ人間。身から染み出る人間の魅力みたいなものはない。薄っぺらい言葉を並び立てて人と付き合っている。そういう面が自分にあるんだなと思い知らされました。

次にできなかったこと。勉強以外の活動。ボランティアでも、イベント運営でも何でもいいんだけど、組織に入って誰かと一緒に何かをやるという経験が全くできなかった。そりゃ、グループプレゼンとか話し合いとか学校でたくさんありましたよ。でも、そんなのどうにでもなる。そうじゃなくて、いろいろ違う意見をぶつけ合いながら3ヶ月先のイベントの準備をするとか、そういうものすごいめんどくさいことに挑戦できなかった。
なぜ挑戦しなかったか。勉強が忙しいという言い訳を1年間続けてしまったのです。やろうと思えばいくらだってできたはずなのに。また逃げちゃったわけ。

はぁ。書くのが辛くなってきたけど、あと少しじゃい!

できなかったこと、最後の一つ。じゃあ、果たしてそんなに勉強したか、と言えば実はそこまで勉強しなかった。何かにつけて言い訳言って勉強してたんなら、学問の方ではさぞ優秀な成果を残したんだろうね... もちろん、そんなことあるわけないがなー!!くそうんこー!!(▼皿▼#)
やっぱり、ぼくは学問で成果を残せるほどの論理的思考力はないんです。そもそも知識も不足してたんだから、行く前にもっといろいろ勉強しておけばよかった。どちくしょう。

結局のところ、最後まで自分の世界に閉じこもりたいという“逃げ”の自分に打ち勝てなかった。内向的で引きこもり的な一面は、今後も大きな課題です。どんな環境に放り込まれようが、そこで会った人がどんな人で何を大切にしているのかをちゃんと話せるようになりたい。改めてそう思いました。


はい、もうこのへんで勘弁してください( ;∀;)
正直な気持ちと徹底的な自己批判を晒してみました。今後も、書きたくないことこそ、まるっと書いていきますのでお楽しみに。


帰還、帰国、帰郷

ぼくの育った町には、いわゆるマイルドヤンキーがけっこういるのかも。公立中学に通い、公立高校に進学し、地元で就職。かたや、大卒さらには大学院まで行ってしまったはぐれ者、ちよわかまるです。

実は一週間ほど前に日本に帰国し、ローカル感あふれる実家に住み着いています。ぼくの地元は都心に近いんですが、「民度が低い」とよくバカにされ、そして自虐ネタにもしています(笑)
地元を歩いて見かけるのは、ちょっと悪ぶりたい男の子(でも根は優しそう)、化粧が独特な女の子(でも流行っぽくはない)、自由が丘や表参道にはまずいないであろうファミリーなどなど。多様性の町・ロンドンから来たぼくは「そうそう、この閉鎖的で一様なかんじ!」と日本の地域社会に帰ってきた実感を日々噛み締めています。個人的には、こういう都市と地方のはざまみたいな場所のゲオとか、本屋とか、カラオケとかけっこう好きです。

さて、今日はそんなくだらない話をしておしまいです。なぜわざわざ帰国の報告なんぞしたかと言えば、もし万一修士留学などにご興味があり、ちよわかまるってどんなエリート戦士なんだろうと思われた場合、運が良ければ会えますよーということを伝えるためでした。実際にこのブログの縁でお会いした人もいたので。コメント欄よりご連絡いただければ、一応お会いするのはやぶさかではないというかんじです。生意気なぼくを殴りつけるために会ってやろうという人も、まあやぶさかではないというかんじです(せめてグーではなくパーでお願いしたいところ)。

あと、今後ブログの更新頻度は減っていくと思います。そして今年いっぱいでブログを書くのを終わりにするつもりです。残りの期間で書こうと思っているのは、

  • 現在書き途中のニーズ(Human needs)の議論
  • 英語のAcademic Writingに使えるサイトなど
  • 1年間修士で学んでみて何を得たか

ぼくとしては、今後留学を考えている人に有益になりそうな情報は、もうほぼ書ききったと思っています。「もっとココが知りたい!」みたいなことがあれば、それもコメント欄からお書きください。ぼくが「ふむたしかに」と思えば、採用させていただくかもしれません。

それでは残り少ない期間ですが、引き続きちよわかまるをどうぞよろちくび。


とっても申し訳ないのですが、当ブログに書いてある内容によって生じた問題などについて、書いている人は何一つ責任を果たせません。
寛大な御心とご自身の判断力をもってお読みいただければ幸いです。